「もしかするとこれは単に、憎悪が国民の義務として評価される国へと状況が舞い戻っただけなのかもしれません。」

http://d.hatena.ne.jp/ootomi/20061023/1161585579
バイナフ自由通信 - 誰がアンナ・ポリトコフスカヤを殺したか?
 
 優れた文章です。日本語に訳してくれて人に感謝。
 ある環境を「キープする(見逃す)」ということ自体の権力性。
 


アンナ・ポリトコフスカヤの悲劇的な死について
インターネット上で繰り広げられている議論を読むと、
人間の醜悪性はもはや限りなく根深くなっていることが、まざまざと感じられます。
 
 熱狂的な「愛国主義者」などではないごく普通の何千人もの人々が、
良心の呵責を感じずに人の不幸を喜ぶ言葉を投げつける様相は、
かつてこの国で「人民の敵」が抹消されていくことをソヴィエト市民が純粋に歓喜し、
ヴィシンスキーに倣い「犬に対する犬死」の言葉を繰り返していた時代と、
いまの時代はさほど隔たりがないことを顕著に示しています。
 
 もしかするとこれは単に、
憎悪が国民の義務として評価される国へと
状況が舞い戻っただけなのかもしれません。
 
(中略)
 
 けれども、
みなさんが抱く憎しみは自分のものだという望みで
自分を慰めないで下さい。
これは、憎悪を育て上げて様々な方向へ送り出すことができる人々の所有物なのです。
彼ら、すなわち強大な力と権力を有する人々にとって、
あなた方というのは、愛することは強制されてもできないのに、
憎むことはいとも簡単に覚えさせられるように浅はかで、
虚偽や暴力には従順に従う群れなのです。
 
(経由:セキュリティホール memo
http://www.st.ryukoku.ac.jp/~kjm/security/memo/)