複数カテゴリーの重複域とか境界域にいるということがポイント。

 


共感は気持ちを動かすことで金を動かすことではないからゼロサムゲームではない。
わかるようになる為のパーツは強者男性でも持っている。
なぜなら
「自分のしんどさは誰にもわからない」
という気持ちを体験しているから。
それをちょっと組み替えればいいだけ。

http://d.hatena.ne.jp/essa/20060721/p1
アンカテ(Uncategorizable Blog) :
バッククラッシュ論争の中の人はゼロサムゲームを戦っているのか?

 

対立概念にしやすいもの、
今回なら(強者)女性と(弱者)男性のような場合は
ゼロサムゲームになりがちなところはあるのだろう。
 
「どちらの気持ちもわかる」では許されない。
どちらかの味方につくのかという踏み絵を迫っているのだ。
だからこそ、こういう論争になるのではないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20060724/sympathy
ARTIFACT@ハテナ系 - 共感はゼロサムゲームでないはずだけど実際には?
 
 
 あとは、ここで出てくる「完璧なバス」の話。

この署名運動ではやり方が良くない、
あの程度のプロテストでは効果がない、
などと独り言ちて、完璧なバスが来るのを待っていないか。
スタイリッシュな批評のみに力を求めて、
経験から生まれる語りとの対話を避けていないか。
あるいはその逆に、
直接的な経験のみからしか語ることは出来ないと言って
介入を放棄していないか。
「今の若者は」と苦言する前世代のヴェテランたちに、
今の私たちの抵抗のやり方を伝える努力をしているだろうか。
アイデンティティを梃子とする運動に共感するあまり、
アイデンティティ・ポリティクスが併せ持ってしまう
避けがたい陥弄に黙して無批判で居続けられるのだろうか。
 
 ひとつひとつの指摘は、今の私自身にも当てはまる批判として突き刺さってくる。
しかし、リプシッツは、これらの指摘を踏まえた上で、
何が可能かを問おうとしている。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~WHOYOU/abksz0509.htm
阿部小涼「海で暮らす抵抗」

(又引用元:
http://d.hatena.ne.jp/K416/20060724/p4
真面目なふざけ、適度な過剰 -
現代思想』2005年9月号に収録されているそうだけど)