「しかし、勇気とか無謀とかそんなチャチなもんじゃねえ! もっと、おそろしいものの片鱗を味わいました。ユーザーを信頼し、コミュニティを信頼するWeb2.0の精神に通じるものを感じます。」

http://amanoudume.s41.xrea.com/2006/05/post_208.html
発熱地帯: ネットの自律進化の可能性か、時間の歪みか、神か?
 
 最近チェックしていなかった発情痴態
…もとい発熱地帯だけど、このエントリーは面白いです。

 元コンテンツがしっかりしていて、
アニメ開始当初からファン(内輪)のテンションが異様に高く、
特定層に向けたコアなマーケティングはできていたという
限定要素はあるにせよ、まさか海外まであの踊りが出てくとは(笑)。
 


ハルヒ』の事例においては、
ユーザー・コミュニティによる補完力と、
知識の空白を埋めたい人間の欲求の2つが
大きなポイントになっています。
 

ハルヒ』で最も特徴的なのは、
自分たちの作品がネットによって補完されることを
作り手が非常に「信頼」していることです。
ハルヒを見て戦慄しないクリエイターがいれば、よほど鈍感でしょう。
表現物というもの、とりわけそれなりに大きなメディアで流通する表現物は、
すべからく「わかってもらおうとする」努力の産物です。
 
しかしそれは「わかってもらえないんじゃないか」という
不安や恐怖の裏返しです。
要するに、受け手の受容能力を「信じていない」ことに立脚しているのです。
その不信の上に、説明があり、装飾があり、
あるいは逆に「最小の説明」を追及した極小の説明があります。
  
ところが『ハルヒ』は、自分たちが語らないことを
ネットやその他のユーザーが補完してくれることを、
明らかに大前提にしています。
だからこそ登場人物の紹介もやらないで、
いきなり自主制作映画を再現したような第1話を流しましたし、
放映順が原作どおりの順番ではないわけです。
このどちらの「不親切」も、供給側はほとんど何もフォローしていません。
ネット上の原作ファンが「勝手に」解説やフォローを始めたのです。
 
「わかってもらえないんじゃないか」という不安に基づいた、
従来のコンテンツ制作の常識からすれば、
明らかに違う次元のセンスが感じられます。
まぁ、キー局の放送ではないことがスタッフを開き直らせた、
という一面はあったのかもしれません。
しかし、勇気とか無謀とかそんなチャチなもんじゃねえ!
もっと、おそろしいものの片鱗を味わいました。
ユーザーを信頼し、コミュニティを信頼するWeb2.0の精神に通じるものを感じます。
この「アグレッシブな信頼性」が作り手の感性のレベルで浸透しつつあること、
アニメの世界で具現化したことは、とても興味深いです。

 
 ちなみに、私は『ハルヒ』はチェックしてません。