「ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る」邦訳。

http://www.jesperjuul.dk/text/gameplayerworld_jp/
 
http://d.hatena.ne.jp/hally/20051102#p1
『classic 8-bit/16-bit topics』
 


デンマークのルドロジストであるジェスパー・ジュール氏が執筆した、
ゲームの定義の決定版ともいえる論文
"The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness" (2003)
を翻訳しました。
 
ゲームとは何ぞやという問いかけに対して、
今のところもっとも有効であろう答えが、
ここに示されています。
 
 グッと来たのはここ。

 第三に画期的な点は、
ゲームはメディアではないと断言していることです。
メディアでなければ何なのか? ジュール氏は大胆にも、
人間の同意のもとで生み出される実体のない状態機械 (オートマトン) である、
と主張しているのです。
人間はもともと無自覚に、
ゲームをチューリングマシンに近いものとして作り上げていた、
だからゲームとコンピュータはかくも相性がいい、というわけです。
いささかご都合主義じみた言説に聞こえるかもしれませんが、
コンピュータに実装不可能なゲームルールが現に存在していない事実が、
何よりの裏付けであるといえます
(今のところテーブルトークRPGは唯一の例外ですが、
氏はこれをボーダーラインケースに位置づけています)。
本質的にコンピュータでプレイしえないようなゲームを作り出さなければ、
氏の説を覆すことは難しいでしょう。
 
 なお状態機械としてゲームを分析する試み自体は古くからあるもので、
さかのぼればチューリングの模倣ゲームにその原点を見出すことができます。
ジュール氏が真に画期的なのは、
状態機械としての分析をメディア論にまで発展させたことであるといえるでしょう。
ちなみにジュール氏は、昨年の論文 "Time to play" で、
この点をさらに徹底的に論証しています。
 
 ゾクゾクします。
 
 で、今、自分が関心があることは、この人の提起したモデルによると
「ゲーム」じゃあないんだなぁと確信。ゲームになっていない。

つまりゴールは
単にプレイヤのモチベーションを維持するための
道具に過ぎないとする考えかたです。
こういった反論をする人の多くは、
法則に戯れる面白さと、ゲームプレイに興じる面白さを混同しています。
積み木遊びやゴム鉄砲遊びなどを考えれば分かるように、
何らかの法則に従ってものを作ったり壊したりする行為は、
ゲームになっていなくとも娯楽たりえるものです。
スコアやステージを取り払ってしまったら、
後に残るものはゲームではなく、
本質的にはこれらと変わらない「遊び」です。
 
http://d.hatena.ne.jp/hally/20051102#p2