「記録」と「記憶」、あるいは「不快なもの」を記録に残す

(mixiの日記に7月12日に書いたものを再掲)
 今考えているTVゲーム絡みのことから、
「記録」と「記憶」についてここ最近ずっと考えていて、
ひょっとしたら、TVゲームをする人のほとんどは
「正確な記録」自体は必要としていないのかも…って気がしてきた。
 
 TVゲーム内で体験したことの「記録」自体は、
TVゲームにまつわる「幸福な記憶」を呼び起こすための
素材に過ぎない…だから、TVゲーム内の「記録」システムは
その書式の雛型自体が(プレイヤーの不快にならないよう)
注意深くディフォルメされている感じがする。
(洒落にならない「不快なもの」はなかなか人為的に記録されない。)
 
 ほとんどのTVゲームをする人の能力って、
TVゲームソフトの「細かい補正・サポート」によって
補助されている、というか、ぶっちゃけ
かなり「上げ底」されているんだけど、
TVゲームソフトの側の「おもてなしの心」が日常化しているので
上げ底」があることが自明として考えられている。
(上手いゲーマーは、その「上げ底」も計算に入れて
能力をギリギリまで使いこなす、判定ギリギリまで。)
 「上げ底」は記憶としては心地よいけど、
記録としては「上げ底」を前提とした記録になる。
まあ、ゲーム内では全員「上げ底」なんで
それほどの差は出ないけど…これから起こる
TVゲーム内世界とTVゲーム外世界の連携を考えると
結構な問題になるんじゃないかなぁと。
 
 一度、「上げ底」が無い状態を体験すると
TVゲーム内での細かいサポート・補正の充実に
驚くことになるし、TVゲームの「上げ底」について
色々と考える契機にはなると思う。
丁度、靴無しの生活を数日体験するみたいに。
(サイボーグフェミニズム的には、生身だろうが
上げ底」だろうが、自身の身体感覚に
フィットすればそれは関係ないんだけど…。)
 
 自分が今目論んでいる、TVゲームプレイの「生ログ」の保存について。
書式の雛型は今までの「セーブデータ」「スコア」よりも、
もっと「生々しく」したい。
それは、普通のプレイヤーにとってはかなり「生々しい記録」で
それをプレイヤーが見てしまうと、最初はそれなりの「ショック」を受けるはず。
 
 その「ショック」を、そこから先の向上心(と達成感)に
うまく結びつけることができればがっちりロックインできるし、
NintendoDSの名作「(略)教授(略)」のような
いい感じのやりこみに結びつけられるんだけど
…『脳年齢』みたいに最高にキャッチーな言葉が
まだ見つからない。言葉の使い方って難しい。