で、改めてポストコロニアル時代の音楽について

 たとえば、ジョージ・ガーシュインの「Porgy and Bess」を巡る問題として、
あの作品はガーシュインの黒人音楽への愛があると読みとるか、
それとも黒人音楽を西洋近現代音楽の成分で薄めて世に出したまがい物と読みとるか、
あるいは、このような作品が黒人問題への理解を深めるととるか、
あるいはあるいは、旧来の白人から見たステレオタイプ黒人像として批判するか...
とかなんとかいう議論は、良くされるのですが、
その一方で、ガーシュインは、「今の」クラシックの制度からの視点で見ると、
クラシックの側に黒人音楽の一要素を取り込んだ作品を作ったと評価されることが多いが、
その一方で当時の西洋音楽規範の一要素を揺るがした面があることは滅多に指摘されないわけです。
規範を揺るがした、あるいは壊したのではなく、どちらかというと「拡張した」と読まれてしまう。
 なぜなら黒人音楽の「取り込み」はコロニアリズムの文脈で見ると
成果を与えてくれる植民地拡大、勢力圏拡大のための一過程ですから。
前衛部分にはいくつかの影響はあっても、宗主国たる西洋音楽の本体には利益をもたらしているとされ、評価される。

 この辺りに、
「過去の歴史をみても客観的に判るように盤石の基盤を持っている」
と(西洋音楽側が勝手思いこんでいるんだけど)市井には想定されている西洋音楽の立場と、
それに対して単なる「摂取」対象とされている(と西洋音楽の側は思いこんでいる)
黒人音楽との「立場の違い」があって、
この立場の違いが自明だと承認されてしまい、ある力学を作り出すその瞬間にコロニアニズムは成立してしまい、
いったんその機構が作動してしまうと、ナショナリズム同様に止めることがままらなくなってしまう。
 ポストコロニアル的状況になっても、コロニアリズムの歴史や状況はある程度余韻や亡霊が残っている上に
その余韻を引きずったり亡霊を引きずり回すことで色々とラクしてたりトクしている奴らが居る。

(ガーシュイン
「ポーギーとベス」は黒人によってしか演じられてはならない。
と残していることは、当時の現状を考えると適切だったと思いますが、
ポストコロニアリズムの時代では、その辺りがまた問題になってしまいます。)
 
 イギリスで、有色人種のみによって演じられたハムレットや、
最近のよくわからないけど面白すぎる一部のクラブミュージックの状況とか、
私の好きな作家であるリービ英雄さんがクレオール的日本語で書く小説や
笙野頼子さんの小説などはポストコロニアル的だと思いますし、
ダグラス・クープランドの小説に出てくる「屈折した後の」日本の空気感もそうかもしれません。)