書評:『イメージ・ファクトリー』ドナルド・リチー

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html
松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇


 そのうえでやっと仮説してみたことは、
ひとつには日本はいつしか「神」を喪失し、
その喪失したものをまったく取り戻せていないだろうということ、
もうひとつには、そのぶん何もかもを
「かわいい」で埋め尽くしているのだろうということだ。
 
 リチーの仮説は半分くらいは当たっている。
(中略)
  
「かわいい」は何を隠蔽してきたのだろうか。
クール・ジャパンは何を「かわいい」から引き取ったのか。
何も引き取ってはいない。
 
リチーの仮説は半分くらいは当たっている。
パチンコやカラオケが廃れないのは、
戦後の日本人が「忘却」を遊戯の本質としたからであり、
週刊誌が社会告発とポルノまがいの“グラビア”で埋まるのは、
戦後の日本人が自分の国のあれこれの「あいだ」を
可視化できなくなっているからなのである。
 
 きっと日本人はあえて何かを喪失したかったのだ、
忘れたかったのだと言わんばかりの分析だ。
が、これは半分当たっていよう。
(中略)
記憶のない日本人になったのだ。
そのかわり、何が継続しているかというと、入れ替わり立ち代わり、
「かわいい」の連発で“ものごと”が通りすぎていくだけなのである。
(中略) 
もう一言、加えておこう。
世間から差別語が退治されるようになってから、
世の中に「かわいい」が氾濫した。
そういう符牒もある。
その結果かどうかは知らないが、
日本はそれをきっかけに物差しの目盛が粗い、
棒読みの世の中になっていったのである。