「ただ喜びのためだけに写真を撮るということから…」
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/2006/08/31/4516.html
web写真界隈:D200雑感:内原恭彦
中でも一番印象深いカメラを問われると
数カ月だけ使用したFinePix1700Zを挙げたい。
このデジタルカメラは、画質も使い勝手もぼくが使ったカメラの中では最低だった。
ホワイトバランスはメチャクチャだしノイズだらけで
トーンも発色もファンタスティックなほどに奇妙。
今思うとレンズは壊れていたのではないかと思うほど不均一な描写で、
ボディはホールドしづらくバッテリーの持続時間は短い。
数年前のコンパクトデジタルカメラとしてはごく平均的な製品である。
要するにD200などとは対極にあるようなカメラなのだが、
FinePix 1700Zを持って写真を撮りに出かけるときの楽しさといったらなかった。
それは純粋に写真を撮る喜びだったのだけど、
FinePix 1700Zで撮った写真を今見返すと
やはり「作品」としてはセレクトできないな、というのが実感である。
FinePix 1700Zが発売された2001年から5年を経て、
デジタルカメラは飛躍的に進歩したし、ぼく自身の写真への接し方も変わった。
ただ喜びのためだけに写真を撮るということから
「作品」を撮るという考えにとりつかれてしまったのだ。
ここ数ヶ月の間に、
最新の廉価機種のコンデジが1台買えほどの金額を使って
数年前の、当時の販売価格で4万円〜10万円近くしたデジカメを
15台程度も買っちゃったんだけど*1。
その理由のひとつに、内原さんが言う、(作品を作るわけではない)
「写真を撮りに出かけるときの楽しさ」があるってのは確実にあった。
思わず、撮っていて「こりゃなんだw」と笑ってしまうひどい瞬間と、
「じゃ、なんだ、こうすればいいのかな?」と試行錯誤していく過程の往復が
とてもとても楽しくて、思わず顔がほころぶ瞬間があるんだ。
気持ちに余裕があるとき特有の、気持ちいいもどかしさというか。
簡単に失敗しやすい分、なぜ失敗したのかがわかりやすい。
この過程がしかめっ面にならない理由のひとつに、
撮った"直後"に液晶画面でチェックすることで、
ある程度失敗を確認・再試行することが可能という
デジカメ特有の特性はあるんじゃないかなぁ?。
ある程度ローリスクで、「さほど痛くない失敗写真」を
積極的に量産することで、色々経験することができる。
最初からフィルムで撮っていて日々のフィルム代にも困っていたり、
本当にプアな機材環境*2で延々失敗写真ばかり撮っていたら、
たぶんこういうfunな感覚は無いはず。
3〜5年前のコンデジってのが、
私にとっての丁度いいボーダーラインなのかもしれない。
私の現在の技術力と知識と忍耐力でどうこうできる限界というか…。
ただ、身にしみて痛い体験や、ギリギリの状況で必死にあがくってのが、
人やメカ*3や装置や文学を成長させるケースも色々とあるわけで…。
この辺りはどうしたことか?
あと
ここの部分の書き方が、なんだか中原昌也さんの小説そっくり*4で
たとえばノイズや色カブリもそれをただちに排除するのではなく、
それもまたひとつの現実として受け入れじっくりと検討してみたい。
検討してみたところで何か結論が出るわけでもないけど……。
爆笑してしまったのでリンクするのを2日伸ばしたのはここだけの秘密です。