そういえば、西成の町を撮ってはった写真家の方で、中川繁夫さんってえらい方がおられますわ(偽大阪言葉)。

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せんせの日記帖
  
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中川せんせ作品案内
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写真展 kamagasaki(1)
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中川繁夫写真集 釜ヶ崎(抄)
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せんせ写真集-無名碑-(抄)
 


釜ヶ崎の労働者は写真取材には拒否をする、
とゆうことが公然と言い伝えられていました。
だからボクはカメラを取り上げられて袋叩きにあってしまうかも知れない、
とゆう不安がありました。
 
ベニヤ板にそれまでに撮り溜めた写真を展示した初日の夕方あたりから、
展示写真の前には沢山の労働者たちが集まってきました。
 
その場は、嫌悪な気配は毛頭なくて、
ワイワイガヤガヤの和やかないい雰囲気でありました。
釜ヶ崎で当地を撮った写真で写真展をやるなんて初めてのことだと思います。
見物者たちは喜んでいるのです。
この光景はボクはある意味でショックを受けました。
釜ヶ崎の労働者に写真が受け入れられた、とゆう事実にショックを受けたのです。
 
西成署のおまわりさんが見に来ました。
ヤクザさんが見に来ました。
朝日新聞の記者さんが記事にするといいました。
翌日の夕刊に12段ぶち抜きの記事になりました。
「あ、わしが写ってる」とゆうようなタイトルだったと思います。
そうなんですね、
釜ヶ崎の労働者が自分たちの写真を受け入れたとゆう事実なんです。
 
ボクの釜ヶ崎への見方が一変したのです。
あるいは写真とゆうモノについての新たな認識といえばいいかも知れません。
釜ヶ崎は写真を拒否しなかった。
 
そこからボクの写真への思考が始まりました。
撮った現場へ写真を返す、とゆう言い方をしましたが、
撮られた写真が何よりも
被写体となった人が歓ぶ写真でないといけないとゆうことです。
少なくともボクの写真の方法は
プライベートな関係の中で生じてくるべきものでした。
 
(中略)
 
このような思いをもっての釜ヶ崎夏祭り「青空写真展」の開催でした。
写真界への反響ってのはまあ皆無に近かったとは思いますが、
実感手ごたえはありました。
 
ズシっとくるものがありました、感覚と感情的にです。
 
そのころの問題意識ってのは、写真の成立する場、とゆうことでした

写真への手紙・覚書/写真物語-3-
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