「状況写真」と「証拠写真」の違いってなんだろう

 さっき見た夢で出てきた本に、このふたつの単語が出てきて、
突然目が覚めてしまいました…夢だったのかよ〜。
 
 その本の中には『「状況写真」から「証拠写真」の時代へ』って出てきてたんだけど、
わたしのなかで「証拠写真」って言葉は"どうもいけすかない"ものを感じますw。
 
 私がサウンドデモとかで踊ったり歩きながらデジカメで撮っていたときに、
機動隊とか警察や公安が、わたし(たち)が踊っている様子を
遠巻きに遠まきに十数台のビデオカメラや一眼レフなどで撮っていたのとは
全然撮り方についての"意識"が全然違うという認識が未だにあるからかもしれません。
そして、とある写真を巡る中平卓馬さんの沖縄での問題*1を、私が、
個人的なことで未だに引きずっているからかもしれません。
 
「世界にあふれる光のなかで護身用の道具(※88)のようにカメラを抱え*2
 

*1:長文になるけど引用。http://www.ipm.jp/ipmj/kohara/kohara72b.html 「中平が自らを「権力」と呼んだ理由は1969年の東大安田講堂の攻防戦や、1971年の沖縄で起こった松永事件によるものであろう。中平は安田講堂での学生と機動隊の衝突を撮影する報道写真家の視点は「国家権力の視点」(※16)以外の何者でもなかったと批判した。また、沖縄返還闘争によるデモで一人の警官が死亡したときに読売新聞が掲載した写真によって一人の青年(松永優)が不当に逮捕されたのであるが、のちにこの青年は実は警察官を助けようとしていたのだということが判明し、1枚の写真が説明文によってまったく逆の意味をもち得ること、写真が言葉のイラストレーションと化してしまったことに中平は衝撃を受けた。」引用おしまい。 なんとなく、これは私の過去の色々な恋愛とも関係あるかも。

*2:http://www.ipm.jp/ipmj/kohara/kohara83b.html