winnyと、匿名性と、権力(ちょっと追記しました。)

http://d.hatena.ne.jp/HiromitsuTakagi/20040516#p1
市民の安全を深刻に害し得る装置としてのWinny 
(高木浩光さんの日記から)
 
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040525#p01
「市民」とは何かを問い直す装置としてのインターネット
(from 圏外からのひとこと)
 
 どちらも考えさせる内容です。
 ただ、高木さんの論で、データの種類(映像なのかテキストなのかの違い)に対して「評価付け」を行っていることはちょっと「おや?」と思いました。
 こういうことって、技術的に簡単に抜け道を作れそうです。
 
 虹裏でのネタコラの応酬*1を見ていると
将来的にはある程度素人をだませるレベルの捏造映像なんて簡単に作れるようになるかもしれませんし、
市販のデジカメを吊しで使うだけでも簡単に変な画像が作れます。
(参照:EXILIMカップリングショット http://www.exilim.jp/ex_s20/function2.html)
 また、プリクラの世界では、画像改変がさらに日常と化しています。
プリクラ写真に文字やアイコンを書き加えたり、「ハメ顔」するフレームを使った写真を作ったり、
ショップで貸し出しされる衣装でコスプレしてみたりといったことはすでに日常行為になってます。
 「そういう世界」を通過した前の世代と後の世代とでは、画像・映像の扱いは大きく変化するでしょう。
 様々な映像や画像の"改変"や捏造を微妙に疑いながら見るというのは日常になるかもしれません。
 そもそも、写真や映像は、撮影時に
フレーミング(あるいは映像での「カット」)・ピント合わせ・レンズ選び」などといった具合に
恣意的な編集行為を結構行うものでして...。
 加えて、幼稚園の運動会における子どもの撮影とかいったホームビデオレベルでも
親による「演技指導」(あるいは演技指導の痕跡)が入っていたり。
 
 あ、イラクでの拘束事件の映像のことをちょっと思い出しました。
 
(追記しました)
 高木浩光さんの日記では、
http://d.hatena.ne.jp/HiromitsuTakagi/20040515#p1

禁止されているプログラムを画像として提供する話といえば、DVDの暗号アルゴリズムCSS」を解読する「DeCSS」のコードをTシャツにプリントして歩くという運動があったことを思い出す。

という文章もあったので、おそらく、文字(プログラム)と画像の関係については色々と考えておられるようです。
 ということは、文字と画像の評価付けの区別は意図的なのかなぁ?
 

*1:ニュース番組の冒頭画像などが元になったネタコラージュ画像が複数のネタ師(神)によって数分間隔で立て続けにUPされる