サウンドデモと小西康陽と野宮真貴、そしてピチカートファイヴという奇跡的現象。

 サウンドデモのDJに、小西康陽が参加したことが様々な波紋を呼んでいますが、
サウンドデモにおける、旧来の意味での「政治的」メッセージ示威行為
(例えば「戦争反対」とか、「殺すな」とか)以外の側面を考えると、
サウンドデモ主催側がDJに小西康陽を取りあげたこと・小西康陽サウンドデモでDJをしたことは、
非常に的確で、同時に「サウンドデモ」そのもの政治性のなかでは
本当に見事に「はまっている」感じがします。少なくとも、わたし的には。
 
 ピチカートファイヴで2番目に有名な(笑)メンバーだった小西康陽さんは、
野宮真貴さんが参加して以降の、とってもソフトでクールでキャッチーでメロディアスな
ピチカートファイヴにおいて、ある複雑な意味付けにおいて
見事なまでに「らしくない」メンバーのひとりです。
 
 1987年4月号のミュージックマガジンに掲載された『カップルズ』のレビューににおいて、
「彼らは"ロック"という言葉のまわりをとても正確に避けて音楽を作ろうとしているように思える」
高橋健太郎にかつて批評され*1
その高橋健太郎に、そのまた7年後に今度は
アンダーカヴァー・ロックンロール」という文章を、ファンブック
PIZZICATO FIVE BOOTLEG』の冒頭にに書かせたピチカートファイヴは、
熱情や感情や生活感の無い声と「そのPOPな存在」を武器とするヴォーカリスト野宮真貴という、
とんでもないウェポン(ピチカートファイヴにおける野宮真貴は兵器的機能美を備えた存在だ)を入手し、
その声とビジュアルイメージを徹底的に使用します。
 しかし、その野宮真貴が歌う曲(メロディ)や歌詞、特に解散前の数枚のアルバムの歌詞や音楽には
時にかなり強い熱情や感情やある種の生活環境における「リアリティ」が、
そして時には非常にセンチメンタルな要素が詰め込まれています。
(このことは、不朽の名盤『カップルズ』や、田島貴男ヴォーカルの楽曲、
そして、他のアーティストにピチカートファイヴの曲がカバーされたときに
よりくっきりと表われてきます。)
 
 小西康陽は、ピチカートファイヴ解散時のインタビューにおいて、
「ぼく自身のスタンスは、(中略)
『世の中にお楽しみを提供していきたい』
っていう気持ちだけだからさ、
そういう意味じゃピチカート・ファイヴ
センチメンタルな要素が増えすぎたのかもね。」
(MARQUEE 新24号)
と述べています。
 
 しかし、ここからがポイントなのですが、
巷でピチカートマニアと呼ばれる人(サンプル例、私(笑))は
この発言が内包するもうひとつの意味を見逃しませんし、聴き逃しません。
 小西康陽さんが『お楽しみを提供していきたい』のは、
小西康陽さんがいまの『世の中』にお楽しみの欠落があることを意識しているからであり、
「センチメンタルな要素が増えすぎたのかも」という発言も、
センチメンタルという"要素"を強く意識している、
つまりピチカートファイブはセンチメンタルな要素にある意味関係があることを示します。
*2
 
 サウンドデモにおけるとんでもない熱量を持つ祝祭性というか「乱痴気騒ぎ」そのことが、
旧来の意味での「政治性」の理解の枠を越え、
本来の意味でのradicalな政治性を持ってしまう(と解釈される)という、
ロジカルなんだかイルロジカルなのか訳のわかんない現状を
音響でサポートするDJとして、小西康陽のポジションは「はまってます」。
 
 DJ中の小西康陽のクレイジーな選曲は、
誰でも判る、ステレオタイプアメリカ表象(豊かで強い映画の中のアメリカ)への愛のような何かと、
その表象のもたらした幻影に今度は自身が「囚われてしまっている」アメリカへの小西なりの冴えた批評(remix使用)とを
ピチカートファイヴのやり方を知る聞き手には伝えてくれます。
 
 そして、サウンドデモ的自体にとってのポイントは、
旧来の「政治的」なスローガンが、
サウンドデモ独特の「政治性」の文脈のなかに放り込まれて出来る意味が
小西康陽のDJによる『お楽しみサウンド』を加えることで、
さらに訳の分からないものになってしまうということです。
 それは丁度、『最新型のピチカートファイヴ』のジャケで
赤い人民服と毛沢東語録を(おそらくゴダールの中国女とYMO経由で取り入れ)、
ピチカートファイブ野宮真貴のファッションとして表し
それまでの重すぎる*3政治的意味を
ポップにずらしてしまったような感じです。
 
 しかし、今回の異化効果の結果がピチカートファイヴ野宮真貴
「あの絶対的な声」ほどの破壊力を持つかは正直私には判断がつきません。
 
 また、旧来の意味での「政治性」を、サウンドデモ的な「政治性」と一緒に
小西康陽サウンドに絡めてぐしゃぐしゃにかき混ぜて
そしてまとめて異化してしまうことが
果たしてあのサウンドデモ内においてすら適切な行為なのか、
それともいくらなんでもあまりに不謹慎過ぎる(w のかは、
正直、わたしには判りません。
 
 
 渋谷の街を移動するサウンドデモのトラック上での
小西康陽の「ガッツポーズ」が、スピーカーの影に隠れて
実はデモ隊には全然見えていないことと、
そんなことに構わずにスピーカー周辺で踊り狂う人々と、
あるいはその後ろで音楽と共に移動・デモする人々と、
その光景に呆気にとられている人々と、
様々な場所*4での「わかっていない文章」の数々(笑)を思い出しながら、
そしてピチカートファイヴのお葬式の"幸せな熱狂"をちょっと思い出しながら
この文章を書いてみました。
 
 
 
 
 
 
 
 あ、これ書くの忘れてた。
「戦争反対。 殺すな。 (声:できれば、野宮真貴を希望。)」

*1:非常に的確な批評だと思います。

*2:これは、ひょっとしたらヘーゲルをじっくり読んでいけばもっと理解が深まるかも

*3:文化大革命

*4:特に2chとその周辺