武田徹さんの掲示板日記(12月28日(日)16時44分9秒)

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からどうぞ (速攻消えてなくなりそうなので注意)
 
 『世界の中心で愛を叫ぶ』に関する考察での、偏在する死という感覚は言い得て妙。
 これは、意外とネットの中ではよくあることで、
ローカルキャッシュやgoogleキャッシュやらwebarchiveやら他サイトの引用文やらで
ゾンビ復活させられる様を、あるいは幽霊が化けて出てくるのを「見て」しまうのですよ、「仮想現実」の世界では。
 

しかし『世界のーー』では死者はどこにもいる。その意味では死んでいない。というか死生の境界がひどく曖昧になっている。死んだ後にも恋人をリアルな存在として主人公は感じ続けている。そこが柴咲コウを「泣かせ」た一因なのだろうが、案外、その含蓄は大きいかも。
というのも、これは、もしかしたらインターネットの普及を主とする情報ネットワークの確立がもたらした感覚の変容かも知れない。情報になってしまうことでネットワーク空間の中で人は常に存在し続ける。

 
 テキストの存在自体がゴースト的な「手応え」を持っている、というか、
テキストになぜかそう感じさせるせる力があるたりすることに自覚的になると、
そこで初めて文学のやばさがわかってくるというか(もう既に今日は酔っぱらい)。
 
 ところで、この武田徹さんの言う「科学ジャーナリズム」に関しては、かなり興味アリというか興味津々なのですが、
正直、今の日本では、この分野で生活がやってけるのかはかなり疑問です...。
英語圏でやっていくのならまだまだ世界的な需要はあると思いますが、日本語だとソースもパイも小さすぎるし、
そして何より近接業者からのやっかみが大きそう。